ベトナム軍の元レンジャー部隊にいたレ・バン・ヌオイさん

ベトナム軍の元レンジャー部隊にいたレ・バン・ヌオイさん - ảnh 1
 ベトナム特殊部隊


ヌオイさんは危険な目にあったり、目撃したりしながら、昔の元レンジャーらは何をきっかけにして、彼はそんなに勇敢になったかという不思議さを持っています。その時、ヌオイさんは足の障害を見ながら笑顔で「それは不屈と退ぞかないことだ」と述べました。ヌオイさんは14歳の時から現地のデェン・ト村のゲリラに参加しましたが、それ以上の仕事をしたがっていました。

(テープ)

「当時、ゲリラになるには小さすぎるので、爆弾仕掛けや手榴弾の物運びだけで、戦闘に参加することは出来ませんでした。その後、都市部からの幹部が故郷に駐屯したのをきっかけにして、ダナン城のレンジャー部隊への参加を申し込みました。当初、手紙の配達、秘密のゲリラ、敵が経由する道端に爆弾を仕掛けることなどを担っていました。そして、訓練を受けて、敵の偵察活動を見極めて、上部に報告するという仕事をしました。田舎から都会に出たので、最初は何も分かりませんでした」

しかし、短期間で、ヌオイさんは、敵の行動をさぐり詳しく把握できるようになりました。手紙の配達、武器の搬送という任務を良好に果たすだけでなく、彼は革命活動に愛国者の参加を呼びかけていました。そこで、ダナン城軍レンジャー隊に参加して1年以内の1970年5月にK20隊の隊長に任命されたのです。その時はまだ16歳でした。しかし、その年の年末に敵に逮捕されてしまいました。敵の刑務所に入り、脱獄した記憶についてヌオイさんは次のように語りました。

(テープ)

「私がレンジャー隊長であることを知り、敵は、約20日間にわたって、私を野蛮な拷問にさらし、尋問しました。その後、こんなに拷問されたら、死んでしまうと思ったので、脱獄することにしました。刑務所に残ったら死ぬ。もし、無事に脱獄できたら引き続き戦闘に参加できると考えたからです。2日目の夜間に、地雷原(じらいげん)に着いているうちに、刑務所では脱獄したことが発見されました。しかし、体に草を覆っていたお陰で、私は無事でした。その後、私は、5箇所の網のフェンスを乗り越えました。3日目に無事に脱獄に成功しました。」

ヌオイさんはこのように語りました。

 

1年後の出張の途中でヌオイさんは負傷してしまい、片足を失ってしました。傷病軍人となったヌオイさんは、北部にある傷病軍人養護施設に入所させられました。戦争後、ヌオイさんは、老いた母親が待ってくれている故郷へ戻ることを希望しました。帰郷してきたヌオイさんの家には、価値のある家具など一つもありません。ヌオイさんは、飢餓で自分の生活を奪わないように頑張らなければならないと述べました。

(テープ)

「当初、私は、幾つかの復員軍人と共に、現地行政府からもらった土地で(くわ)()を植えながら、(かいこ)()いました。そして、私は淡水魚(たんすいぎょ)を養殖しました。6年間に渡って、現在、淡水魚の養殖場は1万平方メートルにのぼっていますよ。そして、6種類の魚を養殖しています。」

このように述べたヌオイさんは奥さんと共に稲や作物をも栽培していると明らかにしました。ヌオイさんと同じベトナム軍の元レンジャー部隊にいたタイ・チェウ・タンさんは次のように語りました。

(テープ)

「他の人は機械で稲刈りしますが、ヌオイさんは夫婦だけの手で稲刈りしました。毎日、朝早くから太陽が強くなってくる9時まで休憩して、午後、又、農作業を続けます。彼らはとても真面目に働いていますよ」

(現場の音)

ダナン城のベトナム軍の元レンジャーの生活はそれぞれ違いますが、すべての人々は貧困な状況を乗り越えて, 豊かな生活を作っています。ヌオイさんの物語はその証の一つと言えるでしょう。

 

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