南部キエンザン(KienGiang)省チョ・ガオ(ChoGao)県フーキエット(PhuKiet)村に住む重度の傷病軍人、フィン・リ(HuynhLy)さんはまもなく70歳になるのに、家庭と社会的な仕事でいつも忙しい生活です。季節が変わるたびに、かつて負傷したキズの再発にもかかわらず、フィン・リさんは熱心に社会活動をしています。
定年退職以来のこの20年間フィン・リさんは地元の党委員長を勤め、党建設に積極的な貢献をしており、農村建設への住民の参加を積極的に働きかけています。現在、フィン・リさんが住む地域では、貧困世帯の割合は3%だけであり、全ての交通道路はコンクリート化され、社会秩序が保証されるようになりました。さらに、家庭での十分な生活は貧困解消へ向けた決意を示してきました。こうした成果を達成するためには、フィン・リさんは様々な困難を体験しなければなりませんでした。かつて、結婚したばかりのフィン・リさん夫婦は住宅建設用地さえも手に入らなかったので、運河沿いにある土地を一時的に借りて、家を建てていました。続いて、二人は作物の栽培、豚の畜産に用いる土地を借りました。その他、彼自身は水産物の水揚げをしました。真面目な労働によって積まれていたお金のお陰で、この傷病軍人の家族は住宅や作物栽培用の土地を購入できるまでになりました。現在、1千平方メートルを越える彼の農園では、様々な価値ある観賞樹木が栽培されています。生活に余裕ができはじめてから、フィン・リさんは現地の社会活動にさらに積極的に参加してきました。フィン・リさんは次のように語りました。(テープ)
「私はまだ元気なので、党委員会とともに地方建設に寄与したいのです。我が故郷はいまだ貧困なので、出来る限りの力で故郷の建設に寄与したいです。」
フィン・リさんはこのように語りました。
ところで、フィン・リさんはかつての対アメリカ抗戦に参加した際に、多くの功績を収めていました。特に、チョ・ガオ県ビン・ニン(BinhNinh)村で、アメリカ軍の戦闘機との戦いでは、ただの歩兵銃だけで、F100スーバーセイバー戦闘機1機を撃墜させました。その功績で、彼は、「米軍殲滅の勇敢な兵士」という称号を授与しました。参戦の間に、彼は8回もの重傷を負いました。ですから今もなお、彼の体の中には2個の弾が残っています。1986年以来、フィン・リさんはフーキエット墓場の管理人を務めています。彼は、立派な墓場を建設するために、現地住民に労働力と募金を働きかけてきました。現在、フーキエット戦没者の墓地では200基あまりのお墓がありますので、墓地の管理業務を自らの任務としながら、犠牲になった人々に対する生きている人の感情でもあると見なしています。フィン・リさんは次のように語りました。(テープ)
「犠牲者らは民族解放事業のために身を捧げました。私はまだ元気なので、墓地の管理業務を自発的に引き受けました。戦没者の墓地の面倒を見たいのです。」
フィン・リさんはこのように語りました。
地元におけるいかなる活動にもフィン・リさんの参加があります。フィン・リさんのことについて、フーキエット村復員軍人協会のドアン・コン・チョック副会長は次のように語りました。(テープ)
「傷病軍人であるフィン・リさんは積極的に行動する人です。村の党委員長でありながら、戦没者墓地の管理人でもあります。どの業務をとっても立派な功績を残しています。」
チョック副会長はこのように語りました。
現在、フィン・リさんの子は二人ともホーチミン市の大学に在学しています。もう一人の息子は軍隊の士官です。まもなく70歳を迎えるこの傷病軍人の精神と熱意はいつまでも耀いています。