日本に暮らした事があるベトナム人のエッセイをご紹介します。
「日本の皆さん、こんにちは、私はガーと申します。現在、私は日本語の通訳と教師をしています。日本への思い出について皆さんにご紹介したいのです。
私の生涯の転換点となったのは丁度10年前、日本で暮らした事です。日本に渡航した理由は、夫が日本の大学院の博士課程に入ったため、私も夫と一緒に日本に行ったのです。当時、私の仕事は日本語と全く関連はなく、順調に進んでいました。しかし、私はその仕事を辞めざるを得なくなり、2歳の息子とともに家族3人で日本に引越しする事にしました。
日本に行った直後は、本当に大変な時期でした。息子は小さくて、自分も日本語が上手く出来なかったからです。日本へ行く前に、自分も3ヶ月ほど日本語を勉強しましたが、挨拶などの言葉ばかりでした。でも、日本に行った時、皆は
早口で話すため、全然分かりませんでした。
当初、私たちは、夫婦と子供の三人家族で先進国で暮らす質素な生活を描いていました。しかし、日本に行くと生活は思ったより様々な困難がありました。
夫は、博士課程ですから朝から夜までずっと忙しかったです。それに夫は日本語も出来ないので、夫からの助けはゼロでした。次は、英語が出来る日本人の支援を受けました。しかし、普通の人は英語が少ししかできず、私を助ける時間は少なかったです。それも困難でした。
子供を幼稚園に行かせたら、手足で喋り合いました。でも、実は先生が何を言っているか全然分かりませんでした。私が日本に行き最初の印象は、息子を幼稚園に行かせた初日でした。ベトナムでは、小さい子は幼稚園に行く時、パンツを履かなくても大丈夫ですが、日本の子は制服を着替えるため、パンツを履かなければなりません。でも、私はその文化を全然知りませんでした。初日に、子供に長いズボンだけを履かせたまま、幼稚園に行かせました。その時に、幼稚園の先生は私に「息子にパンツを履かせなさい」と言いました。私は先生が言った言葉が分からないのに、頷きました。翌日も翌々日も、子供にパンツを履かせないまま、幼稚園に行かせました。そこで、先生がパンツを見せて、初めて分かりました。
さらに、先生は、幼稚園で子供がその日に何を食べた、何の遊びに参加したなどを紙に書き、両親がその感想を書き、サインをするために、その紙を見せました。その時は、日本語の読み書きが全然出来なたった私にとって大変な事でした。
息子が幼稚園に入る当初に、新しい環境にまだ馴染んでいないし、周りの友達と先生は外国語でしゃべれたため、泣いてばかりで、幼稚園に行かなくなりました。そこで、私はもう日本でこれ以上暮らしたくないと感じました。
でも不思議な事は、わずか3ヵ月後に、息子は幼稚園に行きたくなり、日本語をちょっと話せるようになりました。教師と息子には共通のものはなかったのに、何か特別な方法で、息子に新しい言葉を教えてあげた事に好奇心を持ちました。それから、私は安心して、日本での困難を乗り越える意志を持てるようになりました。」
ガーさんの物語第1回目はこれで終わります。来週はこの続きをお送りします。