リスナーの皆さん、今日は。新年に入りこの間、多くのリスナーがこの番組にエッセイをお寄せ頂き、ありがとうございます。
では、さっそくご紹介していきます。最初に、東京都府中市の加藤長さんの「ホー・チ・ミン主席の葬儀」というタイトルのエッセイをご紹介します。
「私は、ベトナムの声放送局の日本語放送が開始されて6年後の1969年から72年までの3年間、日本人スタッフとして、取材・翻訳・アナウンスなどをしました。当時はアメリカとの戦争の最中で、ベトナムは南北に分断され、緊張した日々が続いていました。私は、東京大学を卒業して、日本で記事の書き方の勉強、アナウンス訓練、ベトナムの歴史と情勢の勉強などを数カ月したあと、すぐにハノイに向けて出発しました。
中立国のカンボジアでビザをとってハノイに向かいましたが、プノンペン滞在中に「ホー・チ・ミン死去」のニュースを聞き、ハノイに到着した時には、葬儀の最中でした。クアンスー通りにあった放送局に出勤した初日に、放送局の庭で葬儀がおこなわれ、私は仕事の内容もわからない間に、葬列に並びました。両側に民兵が並び、放送局長のチャン・ラム局長が挨拶をしましたが、出席者は皆、胸に赤と黒の喪章をつけていました。通勤途上でみると、市民はみな同様な喪章をつけていました。通りには、スローガンが飾られ、市内の拡声器からは国歌や「南ベトナムを解放しよう」「インターナショナル」などの曲が流されていました。
その後、バディン会堂でホー主席の遺体の弔問に行った時には、市民が長い列をつくっていて、入るのに苦労しました。ホー主席の遺体の両側には、レ・ズアン第一書記、ファン・バン・ドン首相など当時の党と政府の首脳が立って、頭を下げていました。
ハノイ市内では各機関、組織ごとに多数の葬儀がおこなわれ、その締めくくりとして9月9日にバディン広場で国葬が行われました。私も通訳のツーさんと一緒に出席しましたが、周辺は朝早くから参加者で一杯で、広場にたどりつくのに苦労しました。
追悼式では、レ・ズアン第一書記が追悼文を読み上げ、その後弔砲が鳴らされ、4機編隊の飛行機が2編隊、広場の上空を飛んでいきました。しかし、ただそれだけで式は終わり。おごそかだが、あっけない感じでした。
その時ハップニングが起こりました。最前列に並んでいたピオネールの少年少女から泣き声が聞こえ、壇上の指導者の一人が降りていって頭を抱いてやると、泣き声は広場の市民、労働者、軍人の中に津波のように広がりました。私は、「ホー・チ・ミン主席は本当に市民に愛された指導者だったのだ」と、それが歴史的瞬間であることを感じました。」
今日は東京の加藤 長さんのエッセイをご紹介しました。
リスナーの皆さん、今後も是非エッセイをお寄せくださいね、お待ちしております。
いかがでしたか皆さん、「越日国交樹立40周年特別番組」はこれで終わります。
又、来週をお楽しみに、ごきげんよう。