マイさん、日本列島かけ抜ける
ことしはベトナムの声日本語放送開局50周年という記念すべき年です。その50年のうちの35年間を日本語放送とともに歩んできたのが12年前に退職されたマイアナウンサーです。
マイさんは1945年ベトナム北部生まれで大学では中国語を学び、卒業早々VOV日本語課に入局。そこで翻訳や発音をほぼ独学で習得した頑張り屋さんです。「ベトナム戦争」中は米国と戦う北ベトナムの様子は「ハノイ放送」といわれたVOVが唯一でその短波放送を通じて熱く報道しました。
そういう時代を知っている日本ベトナム友好協会やリスナーなどの「マイ・ファン」が2001年5月、マイさんの退職を祝って1カ月間、日本に招待したのです。
東京でのマイさん【写真 柏木和彦撮影】
朝日新聞夕刊2001,6,7付より
東京では関東周辺のリスナーが集まり歓迎会が行われましたが、その中には1963年4月29日の開局時からのリスナー山田耕嗣さんもいました。翌日から神 奈川、宇都宮、秋田の各地で歓迎を受け、北海道函館へ日本の景色をみながら列車で移動しました。日本での移動はハノイで購入したJRの全国フリーパスを利 用できたので安くて便利でした。
97年に「Xin Chao tu Hanoi ハノイからこんにちは」というNHKラジオが朝9時から夜9時半までの12時間以上をVOVスタジオから生放送されましたが、このとき活躍されたのがマイさんです。ですからNHKラジオセンターのスタジオ見学でも大歓迎を受けたのはいうまでもありません。
北海道の後は、大阪、神戸での大交流会に参加し、大阪を起点に京都、奈良、比叡山などの観光のあと九州へ。行く先々には熱烈なマイさんファンがいて歓迎会が続いた日もありましたが疲れた様子もみせず交流を続けた一か月でした。
何か所かの会場でリスナーから求められたのがテーマ曲のあとのアナウンスでした。♪ジャジャ~ジャジャ~(前奏曲)「こちらはベトナムの声放送局です。この放送はハノイからお送りしている日本語放送です。日本のみなさんこんにちは。マイです。」という声に接した会場のみなさんが「わぁ~、本もの!」と感動したことに同行していた私も感動しました。
当時はインターネット電話もホームページもない時代に短波放送で聴いていたマドンナがいきなり赤いアオザイを着て目の前に現れるのですから無理もありません。函館では白いアオザイを着用してアナウンスしました。
勤続35年の間にはマイさんが歯を食いしばって頑張る時期もあるなど日本語放送の存続が危ぶまれたことあったそうです。しかし無事にお勤めを果たし次の世代も育ててバトンタッチしたマイさんの安堵した姿と日本のリスナーのみなさんとの美しい関係を何度も見ました。
ハノイから同行した私としてはこのことをぜひ現在のリスナーの皆さんにお伝えしたくこの機会をいただきました。
現在の日本語スタッフがマイさんを乗り越えて日本語放送をさらに充実させ発展されることを期待したいと思い12年前の報告をさせていただきました。
筆者: 小松みゆき