(VOVWORLD) -ハノイの絹織物を昔から生産してきた有名な職業村としてバンフック村のほかに、ミードゥク県フンサ村があります。
昔、フンサ村は桑の栽培と養蚕、絹織りの都とも呼ばれました。しかし、市場経済の導入で、国外からの絹織物が大量に輸入されてきたことにより、フンサ村の絹織産業が多くの困難に直面していました。フンサ村の絹織物づくりの女性職人であるファン・ティ・トアン( Phan Thi Thuan 1954年生まれ) さんはこの伝統職業の維持、発展に全力を尽くしています。
ハスの糸から作られたスカッフ(写真:toquoc.vn) |
トアンさんは地元の伝統絹織物の復活に力を入れる一方、独創的な発想で、ベトナム初のユニークな絹織物を生み出しました。
フンサ村の桑の栽培と養蚕産業は1929年に始まった歴史ある伝統産業でしたが、この伝統産業が消滅の危機に追い込まれた時期もありました。当時、トアンさんはフンサ村の農業生産協同組合の会計士として勤務していましたが、地元の多くの職人が次々に仕事をやめ、機(はた)織り機や糸車が道一杯に捨てられる光景を目にし、織り機を拾って、自宅で組み立てたといいます。当時の様子について、トアンさんは次のように語りました。
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「両親は私が小さい時桑の栽培と養蚕をしていました。この仕事は私の生活と密接に結びついていました。昔、祖父母はよく私に“この仕事をつづければ、お金に困らない”と言っていました。地元の行政府もこの伝統産業の維持、保存に配慮してきました」
トアンさんは地元の絹織物産業を維持するため、全国各地で開かれる展示会や見本市に行って、顧客獲得のため、製品の紹介や顧客の需要を調査しました。トアンさんは市場の要求に応えられる新しい製品を生み出すため、日夜努力しました。
(テープ)
「現在、機械で生産されるシルクが市場に多く出回っており、わが村の伝統シルクと競い合っています。そのため、私は顧客の需要に応えるためどうすればいいかということをよく考えました。例えば、顧客が錦を好むならば錦を、シルクを好むならばシルクを生産します。 また、私は形の崩れた繭を使って何か作れないだろうか、蚕の糞を桑の肥料にし、蛹(さなぎ)から薬草を作るなど養蚕の付加価値を向上させるためいろいろと考えました」
2012年、トアンさんはベトナムで初めてのユニークな絹織物、蚕が自ら織った布団を市場に出荷しました。普段、蚕が絹を吐いた後、職人は良質の繭を選んで、繭から糸を取りだします。繭から糸をつむぐ工程が出来上がると、長い糸が職人の手で真っ直ぐになり、糸車に巻き取られます。その後、職人はその糸を使って、シルクを織りますが、トアンさんは蚕の習慣をよく理解しているため、蚕が自分で平たい繭を作るように改良することに成功しました。蚕が自分で織った布団や枕は雲のように軽くて柔らかいのに丈夫です。
このような布団や枕の生産で成功したことにより、トアンさんが得た年間の収益は30億ドンにのぼりました。そのほか、トアンさんはハスの繊維を使って布を織ることを試みました。創造力あふれたユニークな製品を生み出したトアンさんは、商工省により2015年の全国の農家技術インベンション賞の一等賞に選ばれました。
そして、2019年、ハスの糸から作られた絹織物が日本で開かれたG20首脳会議の記念品として用いられました。また、2021年、トアンさんはハノイの優れた市民9人の一人として選ばれました。
現在、フンサ村の絹織り生産業は活気を取り戻しつつあり、村の職人が伝統産業に従事するモチベーショになっています。フンサ村の絹織の職人の一人ドゥ・ヒュ・チンさんは次のように語りました。
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「トアンさんは絹織物を作ることが大好きです。また、トアンさんは創造力が豊なので、ハスの糸から布を作ることや蚕が自分で布団を織るようにするなど、成功しました」
トアンさんが運営するミードゥク絹織物生産会社はおよそ1千人の雇用を創出し、一人あたりの月収は平均450万ドンです。ハノイ市のベテラン職人協会のブーマインハイ会長は「トアンさんは自分の家族の富を手に入れただけでなく、地元の伝統的職業の復活に大きく貢献した」と明らかにし、次のように語りました。
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「トアンさんのような職人がいることを誇りに思っています。トアンさんは地元にある伝統絹織物産業の維持、保存に寄与するだけでなく、創造力あふれる独自の製品づくりに成功しました」
現在、トアンさんは70歳を迎えましたが、絹織物づくりに対する熱心さは劣っていません。毎日、トアンさんは蚕の飼育と絹織りに夢中になっています。