ベトナム戦争といわれる抗米救国闘争から30年あまりたちましたが、戦争中の1972年、アメリカの戦闘機を撃墜したベトナム空軍の最初のパイロットだったグェン・ホン・ミ(NguyenHongMy)さんの記憶はいまだに鮮明です。
ミさん
ミさんは1946年、中部ゲアン(NgheAn)省で生まれました。1965年、ハノイの経済大学に在学中だったミさんはパイロット選抜試験に合格しました。それから、彼は他の120人の青年とともに旧ソ連で戦闘機の操縦を勉強しました。本来の勉強期間は7年ですが、当時は国が空軍パイロットを必要としていたので、3年間に短縮されました。その後、ミさんはミグ21戦闘機の操縦の卒業者19人のひとりとなりました。ミさんは次のように語りました。(テープ)
「まさかパイロット操縦を卒業するとは思いませんでした。当時の私たちは、自分の利益など全然考えず、祖国の防衛、戦闘に参加するように、勉強に専念するだけでした。当時、私たちの親戚は、我々がd闘機の操縦を勉強しているなど全く知りませんでした。」
ミさんはこのように語りました。
1968年にミさんはベトナムへ帰国しました。1ヵ月後、彼は戦闘部内の当番兵になりました。戦闘機はどの空港からでも出撃することが出来ました。1972年当初、米軍はベトナムの戦場におよそ1千機の戦術機、150機のB-52爆撃機、66の航空母艦を導入しました。しかし、当時、ベトナム空軍には180機のミグ戦闘機、地上ミサイル、そしてラダ部隊しかありませんでした。
1972年1月17日に、グェン・ホン・ミさんの戦闘機は始めて敵の戦闘機に遭遇しました。ミさんは他の人ともに8機ものミサイルを狙い打ちしましたが、当たりませんでした。1972年1月19日に、ミさんはまたもや出撃しました。 (テープ)
「その日、アメリカ軍の多くの戦闘機に遭いました。最初は16機でしたが、その後に8機も来ました。私はズオンさんとともに飛行しました。敵の戦闘機が多すぎたため、二人は分かれて、敵と戦わなければなりませんでした。私は、北部ホアビンからF4戦闘機を発見しましたが、中部ゲアンまでで撃墜しました。ゲアンへ行く途中で、燃料切れ寸前により大至急戻れ!という司令部の警告を受けながらも、なかなかその戦闘機を撃墜できなかったので、怒りの気持ちを抱きながらどうしても「撃墜するぞ!」と頑張って飛行しました。撃墜させた途端に、燃料切れ予告ランプが点灯し始めました。あと1分飛行すれば、燃料切れで、飛行機が墜落すると警告されました。」
ミさんはこのように語りました。
F4戦闘機を撃墜したミさんはホーチミン主席の記章を授章しました。この戦闘機は、1972年にベトナム空軍が撃墜した最初のものでした。6年間に渡って、ミさんは2回も敵の戦闘機を撃墜しました。1972年4月16日に、ミさんが操縦していたミグ21戦闘機はアメリカ軍のダニエル・エドワード・チェリーパイロットが操縦したF4戦闘機に撃墜されました。ミさんの戦闘機は墜落し、彼は両手を骨折しました。退役後のミさんは結婚して、二人の子供がいます。
アメリカ空軍の将軍ダニエル・チェリーとミさん
2007年に、昔のミさんの戦闘機を撃墜したアメリカ空軍の将軍ダニエル・チェリーはベトナムを訪れた際、ミさんに会いました。この将軍の招待に応え、2009年4月にミさんはアメリカを訪問しました。その際に、ミさんはアメリカ・ケンタッキー州の知事から名誉大佐の階級章を授与されました。その時のミさんの様子がアメリカ郵便切手になり、アメリカのメディアが何度も報道していました。
現在、首都ハノイにあるベトナム空軍の元パイロットであるグエン・ホン・ミの家では、ミさんの孫の笑い声でいつも賑わっています。ミさんにとって現在、孫たちは生活の中の楽しみの一つであると明らかにしました。