戦時のVOV 爆撃をものともせず正義の声を世界に届ける
(VOVWORLD) - 激しい空爆にもかかわらず、放送が9分間しか中断されなかったのは奇跡としか言えません。
今から50年前の1972年12月18日から29日まで、アメリカ軍はベトナム民主共和国(北ベトナム)の二大都市であるハノイとハイフォンへの爆撃を主とする作戦を行い、これらの都市に大きな被害をもたらしました。VOVベトナムの声放送局も空爆による被害により放送が9分間にわたって中断されたにもかかわらず、正義の声を世界に届け続けました。
「ラインバッカーⅡ作戦」と呼ばれたこの作戦は最終段階に来ていたパリ和平交渉の最後の圧力となることが期待されていました。アメリカ軍は、ベトナムの人々の決戦・必勝精神を砕くために、「ベトナムを石器時代に戻す」と豪語し、ハノイの密集住宅街であったカムティエン通りやバクマイ病院を戦略爆撃機B 52型機で絨毯爆撃しました。「空からの無差別大量殺戮」によって 500 人近くが死傷し、約2000 戸の家屋が全壊もしくは一部損壊しました。VOVも激しい空爆の標的となりました。
戦時のメーチー送信所 |
1972年12月19日の5時5分、ハノイのメーチー送信所は無差別空爆を受けて、送信タワーや送信機が破壊されるなど大きな被害を受けました。これにより、9分間にわたって放送が中断されました。しかし9分後には、予備の送信所から放送が再開されました。激しい空爆にもかかわらず、放送が9分間しか中断されなかったのは奇跡としか言えません。当時の記者やエンジニアなどVOVスタッフの思いの賜物です。当時の技術担当ダン・チュン・ヒエウさんは、今でもその時のことをよく覚えていると言います。
(テープ)
「放送の安全を確保するために、放送局の技術システムは機密事項と見なされていました。そのため、B52によるハノイへの絨毯爆撃でメーチー送信所が被害を受けても、放送はわずか9分間中断されただけで、無事に再開されました。これは、ベトナムの声放送局の周到な準備と作戦によるものです。この作戦はいかなる状況があっても必ず放送を継続するためのものです」
当時、VOVの放送の継続には技術者だけでなく、編集員やアナウンサーの大きな貢献がありました。彼らは激しい空爆の中でも1日も休まず仕事を続けていました。1971年からVOV国際放送部で働いていたインドネシア人スサントさんは次のように語りました。
(テープ)
「1972年12月16日、放送局はほとんどのスタッフをハノイ郊外に疎開させました。18日にアメリカ軍は空爆を始めました。当時、私はインドネシア語放送に勤務し、ニュースや番組などをベトナム語からインドネシア語に翻訳していました。翻訳後の原稿はハノイ市内に持ってきて放送しました。インドネシア語放送のスタッフ2人はハノイに残って原稿のアナウンスを担当しましたが、残りのスタッフは疎開場所で仕事をしていました。困難な状況でしたが、皆、頑張っていました。当時のハノイの夜間は花火が打ち上げられているかのように明るかったです。私たちはメーチー送信所が空爆を受けて破壊されたことを聞きましたが、恐れず、仕事を続けました」
敵の激しい空爆をも恐れず、いかなる状況であっても放送を継続するということを、当時のVOVの幹部・記者・編集員・技術者などは決意していました。VOVの元アナウンサー キエウ・オアインさんは次のように語りました。
(テープ)
「私は1964年にベトナムの声放送局のアナウンサー部に入りました。アメリカ軍がB52でハノイを攻撃したときにも仕事を続けていました。昼間も夜間も、空襲警報サイレンが鳴っても、仕事中であれば、防空壕に入らず、仕事を続けました」
放送が中断された9分後、ベトナムの声は誇らしげに放送を再開し、国内外のリスナーに安心感をもたらしました。南ベトナム解放民族戦線の副司令官グエン・ティ・ディン氏は自らの回顧録で9分間にわたる放送中断について次のように書きました。「1972年12月19日の早朝、ベトナムの声放送局を聴いている途中で、突然声が消えてしまいました。動揺しない心を落ち着かせようとしました。敵が放送局に爆弾を投下したのか、ハノイは大丈夫か、ハノイを守れるのかと心配しました。しかし、9分後に、ベトナムの声は堂々と再開しました。言葉で言い表せないほど喜びました」としています。
1972年12月19日に起きた9分間にわたる放送中断を経験したVOVの元編集書記部部長ビン・チャさんによりますと、この事件の後、VOVは南部の戦場で闘っている兵士や国外在留ベトナム人、外国人リスナーなどから電報や手紙をたくさんもらったとしています。電報や手紙の中で、リスナーは、お見舞いの言葉や、放送の再開を目指すVOVの努力に心底感服する気持ちを示しました。特に、日本人リスナーは、空爆で破壊された送信所を再建するために500万円の寄付をしたとしています。
ビン・チャさんは次のように語りました。
(テープ)
「50年前の歴史的な節目を振り返ると、万が一に備えるベトナムの声放送局、政府・国防省の指導部の視野が理解できました。当時、ベトナムの声放送局は万が一に備える作戦を立てていました。第1に、いかなる状況があっても複数の送信所を前もって整備する。第2に、万が一に備え対応できる人材を用意する。第3に、全世界の人々にベトナムの正義の闘いを理解してもらうため、放送番組を充実させるということです」
1972年12月の「上空ハノイ・ディエンビエンフー作戦」の勝利により、アメリカは1973年1月にベトナムの和平回復を目指すパリ和平協定を締結せざるを得ませんでした。ベトナムの声放送局が激しい空爆を受けても放送を継続したことは抗米救国闘争の完全な勝利に貢献したと言えるでしょう。