半世紀にわたり日本人の夫を思い続けたあるベトナム人女性(下)
ドクさんとスァンさんが離れ離れになった時、長女は6歳で、長男は4歳、そして、お腹の中にもう一人いました。その時、スァンさんは28歳でした。夫についてスァンさんは次のように語りました。
(テープ)
「彼はとても優しい人でした。私を叱ることはまったくありませんでした。キツイ言葉を使うこともなく、とにかく優しいのです。いつもベトナム語で会話していましたよ」
そして、スァンさんは日本語の歌を歌い始めました。
(テープ)
「山の淋しい 湖に 一人来たのも 悲しい心 胸の痛みに 耐えかねて 昨日の夢と 焚き捨てる 古い手紙の 薄煙り」
かつての戦争中、ベトナムに残留した日本人兵と結婚したベトナム女性の生涯に関心を持っているフリーライターの小松美雪さんは長いルポルタージュの中で、これらのベトナムの女性のことを「ベトナムのマダム・バタフライ」と呼んでいます。
マダム・バタフライ、つまり、 「蝶々夫人」は、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニが作曲した有名なオペラのひとつです。1890年代の長崎が舞台で、日本の芸者がアメリカの海軍士官のピンカートンの「現地妻」となった話です。やがて結婚生活も束の間、ピンカートンはアメリカに帰ってしまった。3年後、ピンカートンが新しい妻とともに訪ねてきます。その後、蝶々さんは自害し、悲劇的な結末を迎えますが、スァンさんと同じ苦境に追い込まれたベトナムの「蝶々夫人」はそんな結末にはなりません。しかし、ベトナム全体が貧しい中で女性が一人で子育てをするには苦しい生活を強いられました。それでも、彼女は頑張って子育をしながら夫との再会の日を夢見ていました。その苦しい日々はスァンさんの記憶に生き生きと残っています。
(テープ)
「とても大変でした。でも、その時、全てのことが水の流れのように過ぎ去りました。半狂乱になった時もあり、何も考えることができなくなりました。でも、自分が死んだら、子供たちはお父さんがいない上に、さらに、お母さんまで居なくなったら、今後、どのようにして生きてゆくのか。。。そんなことを考え、また、頑張ることにしました。何か楽しいことを考えるようにして、暮らしてきました」
小松さんの調べによりますと、ベトナムには今なおこのような「マダムバタフライ」はおよそ20人が居り、北部ハノイ、ハイフォン、フート省、タイグェン省に住んでいます。
スアンさん (写真:小松 美雪)
2006年、幾人かの日本人の支援により、ドクさんはベトナムを訪問しました。彼女の子供たちは半世紀以上ぶりに、お父さんと再会しました。当時、ドクさんは90歳を前にして、半身不随でありながら、車椅子で日本の妻と娘や孫らと共にベトナムに来て、家族と過ごしました。日本とベトナムの家族の再会はスァンさんの家族だけでなく、ハノイ郊外の小さい村にとっても大きな出来事となりました。
それから5年後、ドクさんは日本で亡くなりました。ドクさんの日本人の家族は彼の葬式で撮った写真とDVDディスクをベトナムの家族に送ってきました。また、日本の娘はスァンさんにドクさんのいくつかの形見の品を送ってきました。
毎年、スァンさんのお誕生日に、日本に住むドクさんの子供たちは彼の代わりに、スアンさんにお誕生日祝いカードを送ってきます。スァンさんにとって、日本とベトナムは二つの国ですが、彼女の家族にとって国境はなく、一つの国のように感じています。
(テープ)
「とても貴重な感情です。日本人とベトナム人は違う国に住んでいますが、同じ習慣がたくさんありますよ」
85歳を超えたスァンさんは今子供たちと共に、穏やかな晩年を過ごしています。彼女の自宅には夫に関する数多くの写真や現物が飾られています。夫に対するスァンさんの気持ちはこの60年以上、そして、今後も、変わることはないでしょう。この物語の結びの言葉として、3年前に100歳で亡くなったスァンさんを知る親友がスァンさんに贈った詩を紹介して、この話を終わります。
(テープ)
私がこの世を去る前に親友に贈る
貴女は多くの困難を乗り越え一人で3子を育てた
天の神様も貴女の苦しみを理解してくれたので貴女は夫と再会できた
日本とベトナムとの絆はこれからも深まることだろう