愛国者ファン・ボイ・チャウの日本での足跡(下)

1909年3月、ファン・ボイ・チャウと維新会代表でベトナムグェン王朝の王族クオン・デは日本政府から国外退去の命令を受けました。その後、お別れの挨拶に静岡に行ったファン・ボイ・チャウは、浅羽医師の手を強く握り、また早い時期に日本で会おうと約束しました。

9年後の1918年3月、ファン・ボイ・チャウは、再び来日して、静岡の浅羽家に行くと浅羽医師は病のため43歳の若さでこの世にいませんでした。ベトナムと日本の両国の大義を思いにファンボイチョウは浅羽医師の恩を報いるため石碑を建てました。東浅羽村の村史によるますと、「村民はファン・ボイ・チャウと協力し、1918年3月に記念碑を完成させた」と記されています

 

東遊(ドンズー)運動の研究者であるチュンタウ教授はファンボイチョウ氏の革命事業について次のように語りました

(テープ)

「ファンボイチョウ氏は1945年の8月革命勝利の方向へと導くいい架け橋となりました。ホーチミン主席は「ファンボイチョウ氏はベトナムの国益、民族独立のために、身を捧げた天使でかつ英雄であり、敬われた歴史上の人物である」と評価しています。」

「ベトナムと日本の歴史を遡りますと8世紀、ベトナム僧の仏哲は東大寺大仏殿開眼供養会に参列しまた、唐王朝の漢詩となっていた阿倍仲麻呂は安南節度使としてハノイに駐在しました。13世紀に入ると、ベトナムはモンゴル帝国の侵攻を受けましたが、チャン・フン・ダオ将軍の卓越した指揮の下で、3回にわたる侵攻に勝利しました。モンゴル帝国は、この時期日本へ2度侵攻しますが敗北。対ベトナムでの失敗を受けて3度目の日本侵攻を断念したといわれています。17世初頭、朱印船貿易でベトナムと日本の交易は盛んになり、ホイアンに日本人町ができるほどでした。そして20世紀初頭、フランスの植民支配を受けるようになったベトナムの救国の道を探るため、ファン・ボイ・チャウは来日したわけです。

ベトナムと日本の正式な外交関係樹立は40年程ですが、その関係が昔から続いていたことは事実である。これからも両国関係はさらに緊密になり、ベトナムと日本の多くの人々の心に浸透してゆくことでしょう。

                                                                               筆者 トゥーハー

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