東京都府中市の加藤長さんのエッセイ

私がハノイに滞在した3年近くのうち、2年半は米軍のハノイ爆撃はなく、パリ会談が行われていましたので、夏はプールに泳ぎに行ったり、ドンスアン市場に遊びに行ったり、郊外の農業合作社に取材に行ったり、比較的自由に行動できました。

ところが、1972年のテト過ぎから情勢は一変しました。3月30日に、南ベトナムの国道9号線一帯や中部高原、サイゴン周辺などで解放軍の大攻勢が始まり、間もなく北部のクアンチ省は解放され、新聞ニャンザンは真っ赤な見出しでこれを祝いました。

驚いたニクソン政権は、北ベトナム爆撃再開を発表し、その範囲は日を追って、北緯17度から、18度、19度と拡大していきました。4月16日午前に放送局でニュースの翻訳をしていると、突然空襲警報が鳴り、民兵隊はビルの屋上で銃を構え、日本語課のスタッフは全員中庭の防空壕に避難しました。爆弾の投下音がズシン、ズシンと近づいてきて不安でした。間もなく空襲警報は解除され、みんな部屋に戻って翻訳をつづけました。

その直後に、放送局から鉄のヘルメットが支給され、どこに行くにもヘルメットを持参するようになりました。夜は空襲警報が鳴ると灯火管制で停電になるため、懐中電灯を枕元に置いて寝るようにしました。散歩で遠くに行くのも危険になりました。

日本語放送は、アメリカの飛行機を撃墜したニュースが入るとすぐに放送するので、臨戦態勢になりました。原稿を翻訳中に空襲警報が鳴って、防空壕の中で懐中電灯の光で原稿を書いたこともあります。防空壕を出ると、樹木に金属の短冊が一杯かかっていて、クリスマスのようで、「オン・ノエン」(サンタクロースだ)という声が聞えました。アメリカの飛行機がベトナムのミサイル攪乱のためにまいていったのです。私は、多い日は一日に4回ニュースをアナウンスした日もありました。

空襲はだんだん激しくなり、ある日、放送局の送信塔が爆撃されて、第2送信塔から放送するにいたりました。それから暫くして、放送局は疎開することになり、私たち日本人スタッフは荷物を整理し、日本に帰国しました。

その年の暮れにB52によるハノイじゅうたん爆撃があり、多数の死者がでましたが、翌年1月にアメリカは戦争終結に関するパリ協定への調印を余儀なくされました。南ベトナム全土が解放されたのは、それから2年後のことでした。

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