1968年旧正月テトの総攻撃 ベトナム民族の独立への願望を示す
(VOVWORLD) -1968年旧正月テトの総攻撃の当時、アメリカ軍とサイゴン傀儡政権の勢いはベトナム軍隊より強靭でした。しかし、ベトナム人民と軍隊は南ベトナム各地の主要都市に一斉に大攻撃を行い、アメリカに大きな政治的打撃を与え、結果的にベトナム戦争最大の転機となりました。
55年前の1968年1月30日未明、南ベトナム全土でベトナム人民軍とベトナム解放民族戦線は大規模な攻撃を行い、敵の拠点に直接進攻しました。同攻撃の成功はアメリカ軍が起こした戦局を変化させ、アメリカは1973年のパリ会議でベトナム代表団と休戦の交渉に参加せざるを得ませんでした。これは国家統一を目指すベトナム人民と軍隊の闘争に前提を作り出したとしています。
戦局の変化
1968年旧正月テトの総攻撃の当時、アメリカ軍とサイゴン傀儡政権の勢いはベトナム軍隊より強靭でした。しかし、ベトナム人民と軍隊は南ベトナム各地の主要都市に一斉に大攻撃を行い、アメリカに大きな政治的打撃を与え、結果的にベトナム戦争最大の転機となりました。
写真:TTXVN |
国防省・政治学院長のグエン・バン・バオ中将は次のように語りました。
(テープ)
「ベトナム共産党は旧正月テトの大晦日、敵が警戒を緩めているとことに攻撃を行いました。敵軍はベトナム軍隊の攻撃に驚き、予想もしなかった南ベトナム全土の主要都市、政府施設、インフラ、アメリカ側の施設・軍事拠点などが攻撃対象となり、その攻撃規模の大きさにも驚きました」
1968年旧正月テトの最も重要で大きな勝利は戦争最大の転機となり、アメリカの局地戦争戦略の失敗を示し、ベトナム南部の人民戦争の勢いを立証したとしています。さらに、この大攻撃はベトナム共産党の創造力と「小さいものが大きいものに勝つ」という戦術、およびベトナム人の知恵を示したものであると評されています。
敵側の承認
1972年に出版された「バンテージ・ポイント(有利な見地)というタイトルの回顧録の中でアメリカのリンドン・ジョンソン大統領は「敵側は勢いを示す行動を起こすと予測はしていたが、実際、この行動が予想していたよりもはるかに大規模に行われた。彼らが南ベトナム全土でこれほどまでに多くの目標への一斉攻撃を旧正月テトに行うとは思わなかった」と振り返りました。一方、「1万日間の戦争」という本を執筆したマイケル・マクリア氏は「ベトナム戦争は驚きに満ちていた。しかし、旧正月テトの攻撃ほど人を驚かせるものはない」と強調しました。1968年旧正月テトの総攻撃はアメリカにおけるベトナム戦争反対運動を引き起こしました。
平和活動家の1人は次のように話しました。
(テープ)
「戦争反対運動は広がっていましたが、1968年旧正月テトの総攻撃後にさらに盛り上がりました。これはベトナム戦争がアメリカ人の支持を得なかったことを立証しました。また、アメリカが失敗し、何も得られないことが予測されていました」
写真提供:Arthur Rothstein |
他方、1968年テト総攻撃の一環であるフエへの攻撃に関する本の著者であるアメリカの元諜報部員チャールズ・クローン大佐は次のように語りました。
(テープ)
「テト攻撃は戦略的な意義があり、アメリカ本土でのベトナム反戦運動の拡大につながりました。これは私たちにとって大きな失敗です。この攻撃はベトナム戦争の最も重要な出来事だと思います」
1968年テトの総攻撃からアメリカはベトナム南部からすべての軍隊を撤退させるまでに5年、サイゴン傀儡政権の崩壊までに7年もかかりましたが、戦略的にはベトナム人民軍とベトナム解放民族戦線が成功を収めたといえます。ジョンソン政権には大きな圧力を加え、結果的にテト攻撃はアメリカ合衆国連邦政府の継戦意思の転機となり、以後、アメリカは脱ベトナム政策の「名誉ある撤退」という方便を模索するようになりました。