ホアイ ご機嫌いかがですか皆さん。ホアイです。
アン こんにちは。アンです。ホアイさん、今から40年前の1973年、アメリカ帝国主義者に対する戦いが熾烈を極めた時期、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長は南北の暫定的軍事境界線として設置された北緯17度線上のクァンチ省を訪れましたね。
ホアイ その時、カストロ議長はアメリカ軍の爆弾により破壊された道路を改修しているベトナムの女性の命を救いました。今日のこの時間はその思い出についてお話しましょうか。アンさん。
アン はい。興味深いテーマですね。40年前に、クアンチ省に着いた時、カストロ議長はアメリカ軍の爆弾により破壊された道路を改修しているベトナムの女性が爆撃で傷を負った光景を見かけました。
ホアイ その女性はクアンチ( Quang Tri) 省ビンリン( Vinh Linh) 県ビンタイン( Vinh Thanh) 村の共産青年同盟員のグェン・ティ・フォン( Nguyen Thi Huong) さんです。
アン キューバのカストロ議長がまもなくビンリン県を訪れるということを知って、地元の住民だれもが道路の改修に頑張っていますが、突然、アメリカ軍が空爆を行い、フォンさんは負傷して、意識不明になりました。
ホアイ その時ちょうど、カストロ議長が乗った車が到着しました。カストロ議長は車を止めて、フォンさんを自分の車でビンリン病院に運ぶよう要請しました。
アン その時、フォンさんは大腸や大動脈の切断などをして、重体でした。カストロ議長は病院の医師に、あらゆる手を尽くして、フォンさんの命を救うよう求めました。
ホアイ その後、カストロ議長はフォンさんを治療設備がより十分に整備されるクアンビン省に運ぶよう要請しました。
アン 積極的な応急手当と治療により、フォンさんは危険な状態から脱出し、徐々に健康が回復しました。自分がキューバのカストロ議長により命を救われたことを知ったフォンさんは「本当に、運がよかった」ということを感じました。当時の思い出についてフォンさんは次のように語りました。
(テープ)
「私は運が良かったです。戦争では多くの人々が亡くなりましたが、私はカストロ議長の訪問団に出会い、命拾いをし感動しました。もし、高級指導者の訪問団に会えなかったら、多分、生きていませんでした。」
アン フォンさんの話でした。では、この辺でちょっとティタイムにして歌をお聴きいただきましょう。
「クアンチ古城の若草」( Co non thanh co) をお送りしました。
話を続けましょう。健康が回復し、退院して家に帰ってから、フォンさんはカストロ議長から治療薬やビタミン各種、そして、カストロ議長の名刺など多くのプレゼントを受け取りました。
ホアイ フォンさんにとってこれは信じられないことですね。その後、キューバの代表団がベトナムを訪れた際に、カストロ議長はフォンさんにプレゼントを送りました。
アン 1985年4月、カストロ議長はフォンさんをキューバに訪問するよう招きましたが、当時、子供を生んだばかりだったので、行けませんでした。フォンさんはキューバを訪れ、カストロ議長に感謝の言葉を述べることができなかったことを今でも残念だと思っています。フォンさんの話です。
(テープ)
「私は一般市民ですが、当時、カストロ議長に会えなかったら、この世にいませんでした。カストロ議長を私を2度目に生んだ人と看做しています。カストロ議長のご健康をお祈りいたします。」
アン フォンさんの話でした。数年前に、フォンさんは夫と3人の娘と撮った写真とクアンチ省の特産品である乾燥胡椒をカストロ議長に贈りました。
ホアイ クアンチ省の訪問はカストロ議長にベトナム民族の勇敢さに関し、深い印象を与えました。カストロ議長はベトナムに病院建設を支援してきました。その結果、クアンビン( Quang Binh) 省ドンホイ( Dong Hoi) 町で、「ベトナム・キューバ」という病院が建設されましたね。
アン そうですね。戦争が終結して40年の歳月が流れましたが、昔の思い出を忘れることができませんね。
ホアイ そして、これはベトナムとキューバとの特別関係の強化に寄与していますね。
アン そうですね。では、おしまいに、一曲お聴き頂き、今日のハノイ便りを終わりにしましょう。
「道を開く女性」( Co gai mo duong) をお送りしました。リスナーのみなさん。今日のこの時間はカストロ議長により命が救われたベトナムの女性の話についてご紹介しました。それでは、今日のハノイ便りの時間はここで終わります。来週のこの時間に又お会いしましょう。ごきげんよう。
Chao cac ban。