ベトナムの放送局のカーフエの芸術団

ホアイ ご機嫌いかがですか皆さん。ホアイです。

アン こんにちは。アンです。ベトナム中部トァティンフェ省の伝統的民謡カーフエ(Ca Hue)はかつての抗米救国闘争に、ベトナムの声放送局の音楽番組を通じて、全国人民の愛国心を引き起こす精神的武器となりましたね。

ホアイ トァティンフェ省は昔から豊かな民謡がある地方として知られてきました。しかし、民間音楽の他、グェン王朝時代にベトナムの都として栄えた古都フェの宮廷音楽も有名ですね。

ベトナムの放送局のカーフエの芸術団 - ảnh 1

アン そうですね。カーは歌ですから、カーフエはフェの伝統的民謡と宮廷音楽の結合により作られました。カーフエの詩的なメロディーは地元の人々の穏やかな性格を示し、人々の心に入りやすいものですね。

ホアイ そうですね。今日のこの時間はかつての抗米救国闘争、いわゆるベトナム戦争時代におけるベトナムの放送局のカーフエの芸術団についてご紹介しましょうか?アンさん。

アン いいですね。かつての抗米救国闘争に、当放送局は戦場から送られた最新ニュースを伝えた他、伝統的音楽を放送することをも重視していましたね。

ホアイ そうですね。戦場で敵軍と戦っていた兵士に対する音楽の大きな役割を認識した当放送局の指導者は抗米救国闘争が始まった時から、カーフエの公演班の結成を決定しました。

アン ベトナムの声放送局の音楽団のファン・フック( Phan Phuc)元団長によりますと抗米救国闘争に、カーフエの役割が強調されたのは偶然のことではありませんでした。戦争中、クァンチ省はベトナムを南北分断した軍事境界線にあったベンハイ川のすぐそばにありました。カイライ政権のため参戦した兵士の多くはクァンチ省出身です。

ベトナムの放送局のカーフエの芸術団 - ảnh 2

ホアイ そのため、歌を通じて、これらの兵士を祖国のために戦うよう宣伝するのは重要な意義がありました。ファン・フック( Phan Phuc)元団長の話をお聞きください。

(テープ)

「当時、カーフエを放送するのはベトナムの声放送局以外ありません。ベトナム国民はニュースや情報を知るため、当放送局の番組を聴くだけで、アメリカカイライ政権の放送は聞きませんでした。私たちの兵士は参戦する前に、カーフエを含め、当放送局の番組を聴きました。そのため、カーフエを始め、様々なジャンルの音楽を放送しました」

ホアイ ファン・フック元団長の話でした。では、この辺でちょっとティタイムにして、カーフエをお聴きいただきましょう。

「 」 をお送りしました。

話を続けましょう。ベトナムの声放送局のカーフエの歌い手はベトナムを南北分断した北緯17度線にあったベンハイ川にかかるヒェンルオン橋の両岸にいる人々を始め、リスナーの心を奪いました。芸術家ダオ・クイ・ズイさんは次のように語りました。

(テープ)

「当時、ベトナムの声放送局の芸術団がヒェンルオン橋の北岸に公演を行った時、多くの住民が見にきました。カイライ政権の兵士も指揮者の許可を受けずに、見に行きました」

ベトナムの放送局のカーフエの芸術団 - ảnh 3

ホアイ 芸術家ダオ・クイ・ズイさんはこのように語りました。1965年にベトナムの声放送局の音楽団に入団した歌手ホン・ズェン( Hong Duyen) さんはアメリカ軍がベトナム北部と中部を爆撃していた頃、中部各省でカーフエを上演していました。

アン 当時について、ホンズェンさんは次のように語りました。

(テープ)

「ベトナムの声放送局に入局した時、私は中部に出張しました。戦争が激しくなって、アメリカの爆撃機がよく爆撃を行いましたが、空軍部隊の戦場でも公演を行いました。芸術家はだれもが忙しかった。カーフエは重要な芸術のジャンルでした」

アン ホンズェンさんの話でした。戦争中に、カーフエは南北に分かれて住む人々の気持ちを結ぶ架け橋となった気がしますね。

ホアイ そうですね。カーフエは今日なお中部フェ市の重要な文化遺産のひとつですから、今後も、維持保存されなければなりませんね。

アン そうですね。では、おしまいに歌をお聴き頂き、今日のハノイ便りを終わりにしましょう。

「歌」をお送りしました。

リスナーのみなさん。今日のこの時間はかつての抗米救国闘争時代に17度戦近くで歌われたベトナムの放送局のカーフエの芸術団についてご紹介しました。それでは、今日のハノイ便りの時間はここで終わります。また来週のこの時間にお会いしましょう。ごきげんよう。  

Chao cac ban。

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