アメリカ帝国主義者に対する戦いが行われた1964年8月5日、アメリカ軍はピアス・アロー作戦を開始しました。この作戦目的のひとつは中部の橋とフェリー渡し場を根絶させるため、中部にかかる橋やフェリー、渡し場などを破壊しつくすというものです。しかし、南部への支援を続けるため、北部ニンビン省の西部からホーチミンルートと結び、中部クアンビン省にまたがる新しい道路が作られました。この道路は15号線名付けられました。国道1A号線と同時に、この道路は南部戦場への支援ルートの一本となりました。
今日のドンロック三叉路
国道1号線に平行して走る国道15号線は戦争中のホーチミンルートの一部です。チュオンソン部隊、つまり、12師団の司令部のルオン・シ・ヌン( Luong Si Nhung) 少将は次のように語りました。
(テープ)
「1964年8月5日、アメリカ軍は北部の空爆を始めました。その主な目的は南部への物資支援ルートを根絶するためのもので、アメリカ軍は橋の空爆を集中的に行いました。当時、ベトナム人民軍の主要な輸送ルートは国道15号線でした。」
アメリカ軍がこの国道を発見すると、激しい空爆を行いました。その中で、中部ハーティン省カンロック県ドンロック三叉路は南部への支援ルート線上において重要な地点であったため、大量の爆撃を受けました。先ほどのルオン・シ・ヌン少将は「ドンロック三叉路の1平方メートルは少なくとも3個の爆弾を受けた。この三叉路には1万6千人の兵士、幹部、突撃隊の隊員などが集まった時期もあった」と明らかにし、次のように語りました。
(テープ)
「ドンロックの三叉路は非常に重要な位置にあります。この三叉路から国道15号線に沿って、ホーチミンルートに行ける他、国道1号線に行くこともできます。当時、国道1号線上の橋が空爆で破壊されたため、国道15号線を利用しなければなりませんでした。そのため、南部戦場に行く場合、必ず、この三叉路を通らないと行けません。ドンロック三叉路の片方は山で、もう片方は低い畑ですから、ドンロック三叉路を通る支援ルートを遮断することは南部への支援ルートを遮断することになります」
戦争時のドンロック三叉路(写真:Ngan Chai)
このドンロック三叉路は突撃隊の女性10人の犠牲と深くつながっています。1968年7月24日、米軍機の爆撃で青年突撃隊の女性分隊の10人全員が犠牲となりました。分隊長のボー・ティ・タンさんが最年長の24歳で、最年少は17歳でした。10人が犠牲になった爆弾の穴は今も残っています。ドンロック三叉路の遺跡管理委員会のチャン・ディン・ウオック( Tran Dinh Uoc) 委員長は次のように語りました。
(テープ)
「私たちはこの遺跡を訪れる人々が昔の抗米救国闘争の輝かしい伝統を理解するため、宣伝員の育成を重視しています。毎年、7月になるとおよそ4~5万人がこの地を訪れ、戦没者に線香を手向けています」
緑あふれる松林に囲まれた場所に記念碑、記念館、青年突撃隊の博物館などが建てられ、10人のお墓もここにあります。記念館は当時の隊員たちの写真、使った道具や資料を展示していました。毎年、数多くの国内外の人々がここを訪れ、線香をあげ、国の独立のため命をささげた人々の恩を思っています。