(VOVWORLD) - 65年前のディエンビエンフー作戦勝利は9年間にわたるベトナム人民軍の対フランス闘争に終止符を打ちました。この勝利は、ベトナム北部の社会主義建設時期を開き、南部完全解放、国家統一事業に着実な基盤を作り出しました。ディエンビエンフー作戦勝利65周年にあたり、特別番組をお送りします。
1953年末、フランス植民地主義者はインドシナ戦場で大きな損害を被り、インドシナのフランス軍も、またフランス本国でも厭戦気分が拡大していったということです。
1953年11月、フランス軍はディエンビンフーに1万6千人の兵士を送り込み、要塞に立てこもりました。彼らは「貧弱な武器しか持っていないベトミン軍は、大砲があってもロクに使いこなせない」と考えていたし、「盆地を取り巻く山々に大砲を運ぶ技術も軍事知識もない」と考えていました。しかし、ベトナム側は、ディエンビエンフー作戦は戦略的節目となり、長年、続いているフランス植民地主義者との闘争を終結させる可能性があることを認識したうえで、ホーチミン主席とベトナム共産党中央委員会はディンビエンフー作戦を実行すると決定しました。1954年3月3日、ディンビエンフー作戦が始まり、56日間続きました。ベトミン軍はジャングルを切り開き、自転車、馬、手押し車などを使う戦術によって、大小500門近い高射砲、迫撃砲、榴弾砲と、その他の武器と食料を山の上に引き上げるという対処方法を採ったのです。こうしたディエンフエンフー作戦の勝利から、65年経ちましたが、この作戦に参加した元軍人らの記憶は消えていません。
「我々はトゥエンクアンからディエンビエンまでの長い道のりを大砲を運びました。当時、道路が狭くて、溝にかかる仮設蓋は木でつくられ、粗末なものですが、大砲は2.4トンもの重さです。また、フランス軍の要塞の15~18キロ離れた所からドク・ラップ丘の400メートル離れた山の斜面にある陣地まで大砲台を分解して人の手と力で大砲を引き、とても大変でした。そこで待機しました。要塞に立てこもったフランス軍は私たちの存在を知らなかったです。」
「ディエンビエンフー作戦勝利を記念する度に困難な歳月を思い出します。タイグエン省からディエンビエン省までの進軍は1ヶ月もかかりました。ファディン峠を越えるだけでも2日間もかかりました。フランス軍のド・カストリの降参を知ったとき、兵士らは一斉に塹壕を出て、大喜びしました。」
「A1の丘での戦争は最大の激戦でした。ディエンビエンフー作戦は56日間でしたが、A1の丘での戦争は1ヶ月以上も続きました。双方に多大な犠牲が出ました。」
ディエンビエンフー作戦で、フランス軍はベトミンの進攻に驚かされました。フランス側はベトミン軍が105mm榴弾砲や75mm榴弾砲、重迫撃砲数百台を所有し、数万人の大兵力をディエンビエンフー周辺に配置したことを想像できませんでした。戦争の局面を変えた要素は様々ありましたが、その中に、ベトナム共産党の知恵、本領、指揮部の正確な戦術、軍隊と国民の団結と国際友人の支援があったとしています。
「党とホーチミン主席の指導的役割は、敵の勢力を分散させました。フランス植民地主義者が北部平野部で機動勢力を集めたとき我々は敵の勢力を北西部やラオスなどへ分散させました。それは、党とホーチミン主席の英断でした。ディエンビエンフー作戦の勝利はホーチミン時代の思想、ベトナム軍事路線、戦術の勝利であるといえます。」
「作戦の方針転換はボ・グエン・サップ将軍の正しい決定です。ザップ将軍は迅速な戦いの危険性を見極め、着実な戦いにシフトすることにしました。」
「ディエンビエンフー作戦をはじめ、ベトナム人のフランス植民地主義者との闘争の勝利はベトナム共産党の指導下における全国民の団結、独立、自主の精神、旧ソ連や中国の支援、ラオスとカンボジア国民の協力により得られたものです。また、世界各国、中でもフランスの平和愛好者の支持、支援によるところもあります。」