(VOVWORLD) - 渡り鳥は寒い地域から暖かい場所へ毎年やってきます。大陸から日本へ飛来する白鳥がいるかと思えば、日本からベトナムにやってくる鳥もいます。いや、これは本当の「渡り鳥」ではなく日本から年末になるとやって来る人に私たち日本語放送のスタッフが名づけた本当にあった「赤い服の渡り鳥」のお話です。
ホーチミン市無線通信協会設立15周年(2005年)記念式典(中央の赤いベストが久本さん) |
私たちがなぜ彼を赤い服の渡り鳥というかというと、おじいさんは白いYシャツに白いジーンズをはき、赤いベストと赤のベルトに赤い帽子という紅白でまとめたおしゃれなスタイルで現れるからです。靴も赤と白の2足ありTPOに合わせて履き分ける中々粋なおじいさんです。風がある日は赤いジャンバーを羽織っていますが背中には「TOI YEU VIETNAM」(I Love Vietnam)の刺繍が入っていてとても大正生まれには見えません。
そんないでたちでハノイ中心地のホアンキエム湖周辺を散歩するので「渡り鳥」の存在は有名になり年末の風物詩でもありました。湖から私たちのVOV5に歩いてくると当時の日本語課長、グエンティトエットさん放送名はマイさんが丁寧に対応をしていました。マイさんは日本語放送が開局した1963年直後からベトナム戦争中はもちろん、戦後の配給時代も頑張り2001年に退職するまで貢献された私たちの大先輩です。
赤い鳥は新暦の年末と年始をハノイで過ごし、私たちにお年玉を渡した後ハノイが寒くなるころ暖かい南部ホーチミン市に飛び立ちます。そこでこんどは旧暦正月のテトをすごすのです。南の定宿はサイゴンホテルでした。そこにはおじいさんの通信機がありました。1996年、日本語課のマイさんの協力でベトナム初の外国人アマチュア無線局として許可され毎年4ヶ月をホーチミン市で過ごすのでした。かの地ではドンコイ通りを散策するのが好きで路上商やカフェで道行く人を観察し時々日本語課に郵便を送ってきました。そして日本が暖かくなる5月ごろに帰国するのが常でした。
久本清之進さん |
「青春の地」から世界と交信
「ツートン ツートン・ツートンツー」軽快なリズムに乗って指先が交信相手を求めるモールス信号を叩く手さばきはもうおじいさんではありません。どこでその技術をえたのでしょうか? 実はおじいさん、1940年21歳の秋に日本軍が進駐した仏印(現・ベトナム)に陸軍通信士として徴用され当時のサイゴン空港で任務にあたりました。
彼は日本の戦後も2年は帰国できなかったので結局、7年間をベトナムで過ごしたことになります。そんなわけで奥さんを亡くした後はベトナムに渡り暖かい「青春の地」で世界と無線で交信していたのです。1998年、80歳の時、脊髄の手術をして2ヶ月も入院したため医師に海外出国を止められましたが「これが最後かもしれない」と医者を説得してベトナムに来ました。そしてステッキを使いながら日本語課を訪問してくれたのです。よろよろしながらもベトナムに飛んできた赤い服の渡り鳥を見たとき私たちはとても感動したことを思い出します。それから数年ベトナムに来ましたがそのごは、まったく消息がとだえてしまいました。
そして今年12月、ある知り合いを通して「赤い鳥」の消息がわかりました。赤い服の渡り鳥こと久本清之進さんは2016年2月、孫に看取られながら亡くなったことを知ったのです。享年96歳でした。赤い服の渡り鳥さん、長い旅、お疲れ様でした。
どうぞゆっくり羽をたたんでお休みくださいね。 (完了)